アセアン(ASEAN)諸国の「知財情報」を効率良く収集するには―東南アジアの知財制度・実務の調査ガイド
Patent Attorney
Yusuke Ishikawa
スタートアップの経営会議や資金調達の場で、「特許は出願しているのか」「いつ登録されるのか」と問われることは珍しくありません。そうした問いに直面すると、つい、特許の早期審査を利用して早く権利化してしまおうと考えがちです。しかし、特許を早く登録に導くことは、必ずしも事業にとってプラスばかりではありません。スピードを優先することで、クレーム範囲(特許請求の範囲)の変更の柔軟性、関連発明を検討し出願する時間、競合に対する情報優位性といった大切な資産を失ってしまうおそれがあります。本記事では、スタートアップにとっての早期審査のメリットとデメリットを、スピード、柔軟性、情報公開の三つの観点から整理します。そこから、「特許はとにかく早く取れば安心」と思われがちななかで、より実態に即した判断を行うための視点を提供します。
Toshihiko Adachi graduated from the University of Electro-Communications in 2002 and graduated from University of Tsukuba in 2012. He started his career as a patent attorney (Japan) in 2017. Before being a patent attorney, he used to be a patent examiner at Janan Patent Office. He joined ZeLo in 2024. He handles prosecutions of patents in various kinds of technical fields.
目次
まず、特許出願から特許登録までの流れをおさらいしましょう。日本における特許出願から登録までの概要は、以下のとおりです。
- 特許出願
- 審査請求(特許出願日から3年以内)
- 審査官による審査
- 拒絶理由通知、意見書、補正書の提出
- 特許査定→特許登録
特許出願(明細書、特許請求の範囲)の内容は、原則として特許出願日から18か月経過した時点で公開されます(公開特許公報)。また、特許出願が特許査定を経て特許登録に至ると、特許掲載公報が発行され、特許権の内容が公示(公開)されます。即ち、特許出願には(1)公開時期、(2)登録時期、という二つの重要なタイミングがあります。
早期審査とは、一言でいうと、一定の要件の下、「出願人からの申請を受けて審査を通常に比べて早く行う制度」[1]です。これにより、審査請求後、特許庁から最初のアクションを受けるまでの期間を、通常約1年から数か月に短縮できます。
特許出願に係る発明を実施している/実施する予定がある、外国出願している、特許出願人が中小企業・スタートアップ・大学等である、等の場合に、これらの事情を「早期審査に関する事情説明書」に記載して特許庁に提出することで、通常よりも早く審査を受けることができます。
そもそも、スタートアップにとっての特許の意味とは何でしょうか?
第一に、競合の模倣を防ぐ、という特許本来の防御の意味があります。しかし、スタートアップにとっては、それだけでなく、以下のような重要な意味があります。
多くの投資家は、単に「登録済み特許が何件あるか」を見ているのではなく、「この事業を守り、伸ばすために、どのような事業戦略を描き、その事業戦略に照らしてどのような知財戦略を描いているか」を評価しています。そして、一件一件の特許が、その知財戦略に照らして妥当な内容になっているかを見ています。つまり、登録済み特許の件数という「木」よりも、事業戦略・知財戦略といった「森」を見ているのです。
この傾向は、シード期、アーリー期(シリーズA)といった投資ラウンドの初期ほど顕著です。
特許が以上のような意味を持つことを考慮すると、早期審査には一定のメリットが存在します。代表的なメリットを以下に挙げます。
VC/CVC等の投資家および金融機関にとっては、「特許出願中」よりも「特許登録済」の方が、特許を評価しやすくなります。
特許登録済であるということは、特許庁という行政機関が特許出願を審査したうえで、その出願に係る発明にお墨付きを与えたことを意味します。この行政機関によるお墨付き、という事実は、投資家や金融機関に対して大きな説得力を持つこととなります。
特にCVC(事業会社系VC/ファンド)にとっては、特許登録済みであることで権利範囲が確定しているため、自社事業とのシナジーを検討しやすくなります。
また、ベンチャーデット等の融資を提供する金融機関にとっても、特許出願中よりも特許登録済みの方が、担保・無形資産として扱いやすくなり、結果として、融資を受けられる蓋然性が高まります。
B to B SaaSやDeepTech系のスタートアップでは、エンタープライズ営業(大企業や公的機関をターゲットとした営業)や、大企業とのPoC(概念実証)後の本導入の場面において、自社技術と従来技術との差異化の説明を要求される場合があります。
このとき、「特許出願中」よりも「特許登録済」の方が、相手企業内の稟議が通りやすい場合があります。
日本で早期に特許を登録すると、その登録特許をベースに、米国・中国・アジア新興国・欧州等で特許審査ハイウェイ(PPH(Patent Prosecution Highway))を利用することができます。PPHを利用することで、米国・中国・アジア新興国等でも審査を加速させることができ、その結果、これらの国・地域でも早期に特許を登録できる蓋然性が高まります。
特に、アジア新興国では審査期間が長く、また進歩性判断の予見性が低いことから、PPHが有効です。これにより、海外展開を前提としているスタートアップにとっては、短期間でグローバルに特許を取得することが可能となります。
模倣品や類似サービスが出てきたとしても、特許出願中の状態では特許権という財産権が発生していないため、特許権を行使できません。また、特許出願中は権利範囲が確定していないため、模倣品や類似サービスが含まれるような権利範囲で特許を成立させることができるかがわかりません。
これに対し、早期審査により、模倣品や類似サービスが含まれるような権利範囲で特許を成立させることができれば、模倣品や類似サービスに対し、特許権を行使することができるようになります。
以上述べたメリットだけを見ると、早期審査をしたくなるところですが、実際には以下のようなデメリットもあります。
早期審査で早期に特許登録まで進むと、その時点で権利範囲が確定してしまいます。しかし、スタートアップの場合、1~2年の間に商品やサービスの仕様が変わることや、ビジネスモデルが変わることが少なからずあります。このような場合に、仕様変更後の商品やサービスが、すでに登録された特許の権利範囲に含まれないこととなっても、もはや権利範囲を調整することができません。
早期審査をしなければ、将来の仕様変更等を見据えながらクレーム範囲を調整する、という対策を取ることができます。早期審査は、場合によっては、このような調整機会を自ら手放すこととなるのです[2]。
通常、特許出願の内容は、特許出願日から18か月後に公開特許公報として公開されます。この18か月間は、少なくとも特許庁経由では、発明が世に出ていない非公開期間です。
特許出願後に、商品・サービスの改良点、関連機能、応用アイデア等が出てきた場合、その18か月の間にこれらの改良発明、関連発明を出願しておけば、その改良発明や関連発明に係る特許出願が、最初の特許出願(18か月の起算日の特許出願。以下、この出願を「最初の特許出願」と記載します。)の存在を理由に拒絶される可能性はほぼありません。
なぜなら、最初の特許出願は未だ公開されていないため、改良発明や関連発明に係る特許出願の審査において、新規性および進歩性を判断する際の先行技術にならないからです。
しかしながら、最初の特許出願を早期に権利化した場合、改良発明や関連発明に係る特許出願の審査において、最初の特許出願の内容が、新規性および進歩性を判断する上で先行技術になってしまう場合があります。以下、図を用いて説明します。
早期審査請求をした場合、通常、早期審査請求から数か月で、拒絶理由通知等のアクションがあります。このアクションに意見書、補正書を提出し、拒絶理由が解消されると特許査定となります。結果として、早期審査請求から約半年で、発明の内容が特許掲載公報Aとして公開されます(下図の橙色の丸印)。

さて、この特許掲載公報Aが発行された後に、関連発明の特許出願Bをしたらどうなるでしょうか。
特許掲載公報Aが発行されると、その出願人が、たとえ特許出願Bの出願人と同じであっても、特許掲載公報Aは特許出願Bの先行技術になります。なぜなら、特許出願Bの時点で、特許掲載公報Aは「世に公開されている」からです。
特許出願Bに係る発明Bは、最初の特許出願Aに係る発明Aの関連発明であるため、この発明Aに類似していると考えられます。その結果、特許掲載公報Aは、特許出願Bの強力な先行技術となり、特許出願Bの権利化における最大の障壁になり得ます[3]。
通常審査の場合、最初の特許出願Aは、出願日から18か月後に公開されます(下図の黄緑色の丸印)。

この特許出願Aの公開特許公報Aが発行される前に、関連発明の特許出願Bを済ませておけば、公開特許公報Aは、特許出願Bの先行技術にはなりません。なぜなら、特許出願Bの時点で、特許掲載公報Aは「世に公開されていない」からです。
したがって、公開特許公報Aの内容にかかわらず、特許出願Bを権利化することが可能となります。
以上からわかるとおり、早期審査請求をした特許出願Aの特許掲載公報Aが、関連発明の特許出願Bの先行技術にならないためには、特許掲載公報Aが発行される前に、速やかに特許出願Bを出願し終えることが必要です。
例えば、関連発明を次々に生み出す蓋然性が高いTech系等のスタートアップにおいては、このタイムスケジュールは、相当に窮屈なはずです。
さらに、上記ケース1は、早期審査請求をしたときの標準的なタイムラインですが、早期審査請求をし、拒絶理由通知を受けることなく特許査定となった場合は、特許掲載公報Aの発行タイミングがさらに早まることとなります。その結果、特許掲載公報Aが関連発明Bの先行技術にならないように出願するためのタイムスケジュールがますます窮屈に(短く)なります。
以上の事実から、早期審査請求は、関連発明を次々に出願し網羅的な知財ポートフォリオを築こうとする者には、デメリットとなることわかるはずです。
一般に、特許公開公報または特許掲載公報により特許出願の内容が公開されると、ライバル企業は、その特許出願の内容を知ることとなります。これにより、ライバル企業は以下ができるようになります。
通常審査のケース(上述のケース2)では、特許出願Aは出願日から18か月間は公開されないため、ライバル企業は、この18か月間は特許出願Aの内容を知ることができません。
したがって、特許出願Aの出願人は、この秘密の18か月を利用して、関連発明の特許出願Bを出願したり、業界において特許出願Aの内容を踏まえた先回りの動き等をすることができます。
ところが、特許出願Aを早期審査請求し、早々に特許掲載公報Aが発行されると、ライバル企業は早期に特許出願Aの内容を知ることができます。すなわち、特許出願Aの出願人は、ライバル企業に対して早期に自らの「手の内」を明かしてしまうことになるのです。これにより、ライバル企業に上記1~3の動きを早期に取られてしまうことになります。
これは、特許出願Aの内容を前提として様々な動きを取ろうと考えている、特許出願Aの出願人にとっては、デメリットとなり得ます。
早期審査請求により早々に特許査定となり特許が登録されると、やれやれ一安心、という安心感が生まれやすいものです。これは、人間心理の観点でやむを得ないともいえるかもしれません。
しかしながら、そのように安心している間に、ライバル企業は、その登録特許の内容を精査し、秘密裏に万全の対策を早々に講じているかもしれません。登録特許が得られたことにあぐらをかいている間に、ライバル企業に外堀を埋められていた、などということも発生しかねません。
特に、特許掲載公報Aにより発明Aの内容を知ったライバル企業が、発明Aの改良発明を行い、これを早々に特許出願した場合、ライバル企業のその特許出願が、特許出願Aの出願人にとって、事業の実施上の障壁になることもあり得ます[4]。
特許が登録されたとしても、このようなライバル企業の動きがあり得ることは、必ず頭に入れておかねばなりません。出願人は心理的な隙を生むことなく、知財戦略を前に進めることが重要です。
以上、早期審査のメリットとデメリットについて説明してきました。結局のところ、早期審査に関する意思決定は、スピードと柔軟性という、二つの要素のトレードオフのバランスをどこに見出すか、という経営判断です。最善の意思決定をするには、特許制度を深く理解しつつ、事業分野の特性や事業計画をふまえて検討することが必要です。
しかしながら、「早期審査にメリット/デメリットがあることはわかったが、具体的な判断が難しい」と感じられたかもしれません。
法律事務所ZeLoには、お客様の事業の特性を理解しながら、知財活動を伴走した経験のある弁護士および弁理士が在籍しています。法務・知財のプロフェッショナルとして、早期審査に関する貴社の意思決定をワンストップでサポートします。ぜひお気軽にご相談ください。
[1]特許庁による早期審査の定義です。詳細は、以下ウェブサイトをご参照ください。
https://www.jpo.go.jp/system/patent/shinsa/soki/v3souki.html
[2]このデメリットに関しては、分割出願(親出願のコピー出願)という手法を用いることで、一定程度回避できます。親出願が特許登録になった場合でも、分割出願を係属状態にしておくことで、クレーム範囲の調整が可能です。
[3]特許出願Aの出願後、すぐに早期審査請求をせず、特許出願Aの公開特許公報が発行された後に早期審査請求をした場合は、(ケース2 通常審査)の場合と同様のタイムラインとなるため、(ケース1 早期審査)の場合に記載した、早期審査請求によるデメリットはありません。
[4]ライバル企業のこの行動の可能性については、2025年3月26日公開の以下記事の「改良発明の重要性」の項をご参照ください。